小児病棟99・世界自閉症啓発デーに寄せて【入院生活104】
4月2日は
世界自閉症啓発デーなので、テーマカラーである青い色のアクセサリーを身につけて過ごした。
わが家の長男・あき君は自閉症スペクトラム障害(以下、ASD)と診断を受けており、現在は特別支援教室と普通級を併用しながら学校に通っている。また、数ヶ月に一度、児童精神科で診察を受けている。
ゲームと漫画が好きで、学校の授業は少し苦手だけど、雑学的な知識は豊富で、漢字はたくさん読める。
親の目からみたあき君の姿はこんな感じ。
どこにでもいる小学生に見えると思う。
猫の死
わたし達がどのような日常を過ごしているかについては象徴的な出来事があったので、数年前のエピソードを紹介する。
(以下、1年前のツイートより文章の一部を抜粋、編集して掲載)
長男あき君がASDだと気付けて良かった。
気付いていなければ、不毛な叱責を繰り返し、親子の関係も崩れてしまっていたかもしれない。
当時飼っていた猫(むーちゃん)が腎不全の末期で死の淵にあるとき、あき君がわたしに言った言葉は「むーちゃん死にそうなの?死んだら次に何を飼う?」だった。
16年連れ添った猫に対してなんてこと言うんだ!と頭が沸騰しそう……にはならず、逆にすっと冷えた。
あき君に悪気は一切感じられなかった。
でもその言葉はやはり辛くて涙が勝手に出てしまった。
涙を流しながら「大切な物を失いそうな人に、軽々しく別の何かを勧めてはいけない」と教えた。
その後、むーちゃんは天国に行ってしまった。
当時7歳のあき君にとっては、生まれた時からずっと一緒に暮らしていた、家族と言ってもいい存在だった。
家族同然のペットを失う悲しみを身をもって体験し、冷たくなったむーちゃんの体を抱いて、あき君はしくしくと泣いた。あき君は、わたしがむーちゃんのことをとても愛していたのも知っていたし、あき君自身もむーちゃんが大好きだった。
悲しむ母親の気持ちを慰めようとして出た言葉が「次は何を飼う?」だったんだけど、あき君はこの一件でそれは間違いだと強烈に学習した。
落ち込んでいるのを励まそうとして、適切でない言葉をかけてしまったという、たったそれだけの話。でも、言われた当時はかなりショックだったので強烈に印象に残っている。
内心「ふざけんじゃねえ、馬鹿言うなこの野郎」と思ったけど、その言葉は飲み込んだ。あき君はふざけてなんかいなくて、大真面目に母親を励まそうとしていたのが分かったからだ。
言われたのがわたしでよかった。あき君の友達に向けられた言葉でなくてよかった。
これはエピソードの中でも極端なもので、ASDの特性の困難さがよく分かるだろうと思って取り上げた。毎日このようなやり取りをしているわけではない。
特別支援教室で
支援教室で行うことの一つにソーシャルスキルトレーニング(社会生活技能訓練、略してSST)がある。
支援教室の担任の先生からの報告に、このエピソードと似た状況のSSTの課題が出てきた。
飼っているペットがいなくなって悲しんでいる子に何と声をかけるか、用意された選択肢から選ぶという課題だった。
あき君は、悲しむ子に共感するような選択肢を選んでいた。
社会性の教育だなんて、必要性に疑問を感じる人もいるかもしれない。社会での振る舞いを教えるだなんて、傲慢なのかもしれない。わたしだってそう思っていた。ただ、「障害」と診断される子どもにはそれだけの理由があると思う。
あき君だって、家庭の中だけで過ごす分にはさほど困らない(一緒に暮らす家族は時に困るけど)。でも社会に出ていく場合は、やはり本人の特性が社会との間で障害になると思う。
発達障害(特に昔の基準のアスペルガー症候群、今の自閉症スペクトラム)の人が「人の気持ちがわからない」というのは正確じゃないと思う。
あき君、自分の気持ちもよくわかってないっぽい時があるもんね。
ASDは空気を読めないとよく言われるが、空気は読めていても対処法を知らないだけじゃないかな。
わたしが一番困っているあき君の特性は「気持ちを表に出せない」「自分の気持ちが分からないのかもしれない」ということだ。
トラブルがあったときには静かに固まってしまい、自力で解決する能力は低い。
それでも、少しずつ成長している。
定型発達の子も発達障害の子も、成長の喜びは変わらない。